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Posted by おてもやん at

2009年02月12日

✽ 初めてお読みいただく方へ ✽

 ご訪問、有難うございます。

この詩集は、終戦の年、本荘小学校6年生だった「猪本義弘さん」が、書かれた詩集です。
ほとんどは当時の先生方に没収され、かろうじて残ったものを同級生の方が当用漢字に直され出版されました。
左の「カテゴリー」の『花』から下方順に、お読みいただければと思います。




                 
  


Posted by 葡萄 at 18:37

2007年07月30日

【付記 ② 先生がたの事 】

 ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより 

 当時わが校から、唯ひとり航空機乗務員養成所に入所した志賀亟さんは、半年も経たずしての
終戦で、帰郷。そのまま復学もせずに消息が絶えました。
ある日、皆の前に表れた時には、「雨やどり」と名付けたお酒の店の亭主。
その後すぐ病を得て亡くなりました。 決して居酒屋だからどうのと云うのではありません。
それはそれで達観の人生であったのでしょう。

ただ級友としての目から見れば、彼はクラスの級長も勤め、いづれは必ず一廉(ひとかど)の
人物に成り得ると皆に嘱望された人材でした。
戦争が彼の人生を変えた、とそうは云えないでしょうか。
先生にも生徒にもそれぞれの人に、戦争は後々まで深い傷あとを残していたのです。

 また、萩尾先生は、いのもとさんが出席し、話が弾んだ学年会から暫くして、お住まい近くの
上通りの街角で、工事中に屋上から落下してきた看板を身に受け、お亡くなりになりました。
なんとも儚いお命でした。
 
 謹んで鬼籍へ入られた方々の、ご冥福をお祈り致します。






    応援、有難うございました♡
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2007年07月28日

【付記 ① 先生がたの事 】

 ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

 永らく郷里を離れていた彼が、私共の学年会に始めて出席してくれた時、私の担任であった
萩尾絹子先生も同席されていました。
彼と私とでは組が違いましたから、担任の先生も違っていたのです。
萩尾先生はいのもと少年の事を良く覚えていられて、職員室での先生がた同士のお話のなかで、
彼の担任の西田先生が「あのまま放って置くと、過激なコミニュストにもなりかねない。」と
心配され気にもされていた、と聞きました。

彼の不遇の身の上も察して居られて、当直の夜など、宿直室に泊め食事もいっしょにされて、
夜更けまで特に話をされていたそうです。
「あ、あれはとても嬉しかったですよ、親身にいろいろ心配していただきました。
先生であっても肉親のように思えましたね。」と彼も懐かしそうに萩尾先生に答えていました。
その西田一隆先生は、戦後の教育改革運動の先頭に立たれ、その激務の中で残念ながら、
まだお若かったのに亡くなられました。

 その折にまた萩尾先生は、「私は戦時中、深く考える事も無しに、生徒達にむかって、
戦争を賛美するかのような言辞を弄した。戦後はその事を恥じて、教職から間もなく
身を引いた。」
と語られました。当時20才を少し超えたばかりの年令。若さに溢れ、その名と同じく花の香がするような先生。
多くの女子生徒に慕われていた魅力的な方であったのに、とうとう結婚もなさいませんでした。
ここにも、己れに厳しく身を処された方が居られたのです。



 
 応援有難うございました。m(__)m
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2007年07月27日

【 国民皆兵 】 【 一銭五厘の命 】

   ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

【 国民皆兵 】

戦時中は男子が満20才に達すると、壮丁(そうてい)と呼ばれ徴兵に応じる義務が生じ、検査を受けました。
合格すれば入隊し、一定年限を軍務に服さねばなりませんでした。
身体頑健な壮丁は甲種合格、これは名誉なこととされ、まあまあが乙種、軍務に耐えぬとされた
病弱な者が丙種不合格、軽蔑の対象となりました。

 陸軍では入隊すれば初年兵が2等兵、成績が良くて進級すれば1等兵。
軍務期間を延長した古参兵となれば上等兵。この上の伍長、軍曹、曹長ともなれば下仕官とされ、
通常庶民の徴兵による入隊の階級はここまででした。



【 一銭五厘の命 】

 国民皆兵の方針のもとで、戦闘員の消耗が激しくなるにつれ、随時の徴兵の数が増えてゆき、
末期にはかなりの年配の者まで召集を受けました。
徴兵の告知は召集令状によってなされ、その用紙の色が赤でしたので、一般に「赤紙」と呼ばれていました。
その郵便料が当時一銭五厘であったことから、一銭五厘の命などと、自ら揶揄する人も居たのです。
召集を受けると、数日後には駅から最寄りの駐屯地へ赴き、そのまま戦地へと送られて行きました。

建前は上はお国の為に目出たき事と、万歳の声に送られて行ったものですが、行く者もそれを
見送る家族も、密かに涙したのも当然のことです。





 応援有難うございました。
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2007年07月25日

【 配給の頃 】 【 ぼした祭り 】

 ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

*【 配給の頃 】
 
 昭和16年12月に第2次世界大戦が始まり、敗色が濃くなるにつれて物資も不足し、石油など民生用には与えられず、自動車も木炭を焚いて走りました。
やがて食料、衣服に到るまで統制の対象とされ、配給と称して定量が与えられましたが、
それだけではもとより十分とは云えず、皆とても困りました。

ただ、そうした状況でも、世の中には常に裏道があるもので、その末端の配給所で給付される量は
少なくとも、流通の過程で闇に流れるものも少なかったでしょう。
いのもとさんの身の囲りが配給所で、そうした抜け道を横目に見ながら、正義感の強い性格からして
許せぬと心を痛めていたのでしょう。



*【 ぼした祭り 】*ボシタ祭り(5/28)

 お祭りにふれましょう。 市の中央に藤崎宮の社(やしろ)があります。
毎年9月15日に遷宮の祭儀があり、それを随兵(ずいびょう)と呼んでいきました。
この掛け声の意味が、秀吉の朝鮮戦没で敵を滅ぼした、との意味があるのではとの
疑惑も起り、今では控えられるようになっています。
本来は卑属な意味もあるらしいのですが、とにかく戦前からの楽しいお祭りです。

藤崎宮・秋の大祭(馬追い動画)



   応援有難うございました。♥
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2007年07月24日

【天草・島原 】

 ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

熊本駅から列車に乗って、未だに単線の線路を西に走れば有明海に突き出た、
半島の突端が終着駅の三角港。
昔もここから天草、島原へと渡航船が出ていました。
島原の乱、天草四郎時貞で名高い天草の島々へは、今ではもう島伝いに車でも、
往来出来るようになっています。

 いのもとさんの母上様は、るるどのある天草本渡のご出身。
この地に戻って療養中に亡くなられたそうです。
「るるど」とは、カソリックの聖地、南仏「ルルド」から名を引いた、洞窟などを利用した
隠れ切支丹信仰の場所です。 
 
 熊本は肥後火の国とも呼ばれます。
その謂れの一つでもある阿蘇火山が、市中からも遥か東方に見えています。
とはいっても市内から望めるのは、外輪の峰々に過ぎませんが、それでも昔天気の
良い日は私達の小学校の校庭からも噴煙たなびくのが、見えたものでした。

▼↓参考ホームページ
三角港
八景水谷公園
八景水谷公園
ASO fan club
水前寺成趣園
  


Posted by 葡萄 at 04:44Comments(0)【 付記 】

2007年07月23日

【付記 ② 市中のあれこれ 】

 ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

 城から離れた北東の位置に、水前寺公園があります。
肥後熊本の藩主として、細川忠利公が豊前(ぶぜん)小倉から熊本城に入られた後、
花畑(現花畑町)に国許屋敷を、出水(いずみ=水前寺公園近く)に、別墅(べっしょ)屋敷を設けられました。
その、別墅屋敷が今の水前寺公園に当たります。
またこの地に豊後から羅漢寺を移して水前寺と呼ばれた事からこの名になりました。
後にこの寺は廃されましたが、名のみが今にまで残されているのです。

 また、細川綱利公の時代に「国府のお茶家」と呼ばれていた邸内の茶屋に、富士を模した
築山や湧水を利用した泉水などの庭園が造られ、陶淵明の詩の一節から「成趣園」と
名付けられました。

 明治十一年には、園内に出水(いずみ)神社が建立され、この庭園も社地として政府より
払い下げられ、市民に開放される事になりました。
 今はさほどでもなくなりましたが、熊本は地下水が豊富に湧き、近くには湧水から成り立った
江津湖(えずこ)があります。
この湖の水温は年中16℃~18℃を保ち、夏鳥・冬鳥が一緒に棲息していられて、
野鳥の宝庫としても知られています。

 昔は市内の水道水も湧水によって賄われていた程です。
郊外の「八景水谷」と云うところに、市の取水池がありました。

                                           つづく




   応援ありがとうございました♥(^。^)♥
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2007年07月22日

【付記 ① 市中のあれこれ 】

 ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

 当時の熊本の繁華街として、衣服や装飾品などを扱う商店を多く連ねた、通りの名が下通り。
書店やレコード店など、どちらかと云えば趣味性の強い商品を、主として扱う店が揃っていたのが
上通りでした。
上、下の通り全体が、今でいうショッピング・モールのような感じでした。
それに比して、映画演劇、飲食店などが多く集っていたのが新市街。
世の移り変わりをそのまま映すような名、電気館、世界観、ニュース館などがありました。

 市の南西に熊本駅があり、その背後の小高い山が花崗山」。
戦後すぐ頂上に仏舎利塔設けられました。
ここは熊本城御幸(みゆき)坂に並ぶ櫻の名所でした。
その花崗山に連なる高い山が金峯山。
今では頂上にアンテナが林立し、自動車道もできて、山容もすっかり変わりました。
ここへと辿る山路の途中に夏目漱石の「草枕」の書き出しで有名な、峠の茶屋が今も
残されています。


 熊本市街は、市中に大樹の数が多く、今では市街地の開発によって、最程(さほど)でも
なくなりましたが、私達の子供の頃には、家並みも樹々に埋れていて、仙台と同じく
杜の都称されていました。
 
 市の中央に加藤清正公築城の熊本城があり、城壁の石積みの見事さで知られています。
外観の印象はまさに質実剛健。 姫路の白鷺城とは好対照です。
この城(別名・銀杏城)は、西南の役(えき)の際に消失した、との風説もありますが、
実情は薩軍の攻撃前に、すでに本丸は消失していました。
失火か故意か?真相は今究明されようとしています。

応戦した谷干城率いる熊本城の勇猛ぶりは史実に残るとおりです。
この戦役にも無事で、昔ながらの姿を保つ宇都櫓は、城郭の一周に今も残されています。
天守閣は戦後しばらくして再建されました。


                                つづく



       応援有難うございました。♡
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2007年07月21日

【付記 熊本の食べ物 】

 ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

 京菜、広島菜、野沢菜などと同じく、熊本には高菜漬けがあります。
刻んだ高菜の古漬けを炒めたものは、お茶漬けなど手軽な惣菜ともなります。
今では馬刺しやラーメンも有名ですが、辛子味噌を穴に詰め、衣をつけて揚げた辛子蓮根は、
サッパリとした風味で、昔から知られています。

ふだん草そうとは、味噌汁の実にして美味しい青菜の事。
すいとんの事を熊本では、団子汁(だごじる)と云います。詩ではだんご汁となっていますが、
これは言葉のリズムによるものでしょう。

ひともじと云う細ねぎを茹でてぐるぐると巻き、酢味噌でいただくのが、ひともじぐるぐる。
しいのふたとは、掌の上に乗るような小さな魚。
煮魚にすると白身で見離れの良い美味しいものです。

 文旦(ぼんたん)とはザボンの事。 文旦漬けと云えば、その厚い皮を煮て砂糖で漬けたもの。
その風味を生かしたキャラメル状の飴は、文旦飴として、今でも諸方のキヨスクなどで売られて
います。
かるかんは、淡雪のような、口あたりのソフトな菓子。
銅銭糖とは阿蘇地方え売られていた菓子。文銭を連ねた青差しの形をした落雁です。

 また、いひゅうもっこすとは、熊本の方言で根性張りのこと。
土佐での「いごっそう」の意と同じく、やせ我慢の意地っ張りを指します。
いのもと少年は、多分にこの傾向にあったのでしょう。

                                   つづく


    応援、有難うございました。♥
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2007年07月20日

【 付記 詩(うた)にまつわる事柄 】

 ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

 昔のものですから、もう現代の若い方には、それと通じない語句もあると思います。
また地方都市のことで、馴染(なじ)みのない地名も多いのは当然のことです。
思いつくままに、それらに触れてみたいと思います。

(九州 ・ 熊本)
 
 私共が育った所は九州の熊本です。本荘と云う町は、熊本市の中央を流れる
白川(歌の中では時に白河と書かれています。)の南側に位置しています。
地域をいわゆる山の手、下町とに置き換えていえば、まさに下町ふう。
どちらかと云えば少し貧しかった庶民の町でした。


東京に当てはめるとすれば、白川を隅田川に模して向島辺り、寺島、白髭と
いったところでしょうか。
その白川に懸かる代継橋を渡れば、本荘町。代継橋の下流に長六橋
上流に病院橋、安巳(あんせい)橋、大甲橋とならんでいました。


 いのもと少年が居た家は、その代継橋のすぐ傍らでした。
当時、代継橋の対岸には遊所がありました。
もちろんその界隈に女の子など、立ち入ることもなかったのですが、
戦中戦後の混乱期に、虐げられた女性達の姿があったこと、何となく知ってはいました。
彼は、子供の身でありながら、それらの哀しみまで深く理解していたのですね。

                                           つづく




 応援、ありがとうございました。♡
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2007年07月18日

*詩の心

難しい言葉や 情景描写
  それを綴るだけが 詩(うた)ではない
心の中の 在りようを
  示すものこそ 詩(うた)

やさしい言葉と 素直な心で
  みんな心に 詩(うた)を持つ
胸に感じて 思いのままに
  感じることも 応えることも
それはみな 詩(うた)の心から
  人を憎むことも 詩(うた)

人を愛することも詩(うた)
  その心の 動きのままを
紙に記せば 詩(うた)になる
  思いやりからの 嘘も詩(うた)

我が儘(まま)を とおすのも詩(うた)
  寂しいときも 詩(うた)
喜びあっても 詩(うた)
  気持ちのままに 詩(うた)をうたう

紙の上に 記せなかった詩(うた)は
  呟きとなって 風に散る
切れ切れに 流さってしまうのも みんな詩(うた)
  紙の中に溶け込むのも みんな詩(うた)

詩(うた)がなければ 生きられぬ
  精一杯怒って そして悲しんで
詩(うた)のままに 夢を見て
  せめてもの 短い生を羽摶(はば)たこう




 いのもと少年の詩集「戦争の頃、子供だった」、今回で終わりました。
    ご愛読ありがとうございました。

 これから、編集者興津千恵子さんの付記、あとがきなどを紹介させていただきます。


 
  応援有難うございました♡
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2007年07月17日

*出征兵士

みなが蜻蛉(とんぼ)や 蝉を追う
   誰か今 白い蝶を捕まえた
羽根を抓(つま)まれ 燐粉(こな)散らして足掻(あが)く
   目元の管を 伸ばしたり縮めたり
みるみる元気を 無くしてしまう
  

   あちこちで蝶は ひらひらと飛ぶ
紋白 揚羽 一文字せせり
   花から花へと 嬉しげに渡る
蝶は舞う姿こそ もっとも優美
   蝶だけのことでも 無いだろう

飛蝗(ばった)でも 蟋蟀(こおろぎ)でも
   やたらと捕まえて 良いのだろうか
捕らえられた虫の末路は 必ず死
   蝗(いなご)は米を食うから 捕えよと云う
でも田を枯らす程に 食うだろうか



   大きな掌(て)が 天から表れ
小さな虫を むんずと掴(つか)む
   虫は驚き 足が捥(も)げるまでもがく
標本に でもなるのなら 兎も角
   悪戯(わるさ)だけで 死なせてはなるまい


小さな赤紙が 天から下りて
   隣の家の 小父さんを捕まえた
御国(みくに)の為に 目出たき事と皆が云う
   万歳の陰で 隣の小母さんは
そっと涙を 拭くばかり
   小父さんが帰るか 帰れぬかは
最早 誰にもわかるまい
   

   小父さんの暮らしは 今後どうなる
決して目出たき事 ばかりでは無い
   誰かが行かねば ならぬから行く



蝶まで 死に急ぎさせることも無い
   どうせ短い 束の間の命
今直ぐ離して やろうではないか





  ※( 戦争のこと ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

※ 戦争末期になりますと、文系の学生を対象とした学徒出陣が行われました。
 それ以前、小学過程終了後すぐに行く、航空機乗務員養成所が開設されました。
 私達は女子組でしたから、他の男の子の組から数名が受験しました。
 その中に、いのもと少年も入っていたのですね。
 
 学校に対しても、応募を薦めるように義務づけられたそうですから、みすみす生徒を
 送り出さなければならぬ、担任の先生がたとしても、実のところはお辛かったことと
 思います。

  いのもとさんは、どちらかと云えば腺病質で身体も細く、校医は担任の先生に
 「あの子は今のままでは肺疾患か何かで、長生き出来ないよ。」と心配されていたそうです。
 身体を鍛えよと常に教導されていたとのこと、その故もあったのだと思います。



 応援、有難うございます♥
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2007年07月16日

*天佑神介

傘屋の店主(おやじ)が 防空演習の指揮
奥さん達を 大声で叱る
常々は 腰の低い人柄なのに
束の間の役目に 人は酔う


一作日皆で 天井板を剥がした
類焼の原因(もと)に なるからだという
空から爆弾を 落とされれば
家そのものが 無くなるというのに


埃の道を 新兵さんが行く
襷(たすき)と鉢巻が 痛々しい
魚の目をした 兵隊さん
鳥の目をした 兵隊さん


配給所員は 量目をごまかし
配給所同士で 融通し合う
闇の味噌醤油を 偉い人に届けた
志(こころざし)あるなら 口になどするな


輝く鴉(とび)は 歴史と共に去り
煌(きら)めく武将も 姿を消した
この世に正義など ありはしない
人は自分を 騙しながら死ぬ


民は焼かれて 街々に死に
兵は撃たれて 異国(とつくに)で死ぬ
老若男女 いずれは死ぬのに
天佑神助ありと まだ戯(ざ)れ事を吐く





   応援有難うございます♡
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2007年07月15日

*偉人

世に 偉人の数多し
  今では 口にも出せないけれど
エンジン フォード リンカーン
  電灯を点し 自動車を走らせ
乱れる国を 立派にまとめた


  偉人に見るは 確固たる思想
何にも負けぬ 強固な意思
  熱中し得る 好きな道
僕では偉人になり得ない


  意思も覚悟も 集中力も無し
勉強には 身が入らず
  誰にも見せぬ 文つづるのみ
希(のぞ)む道など 思いもよらず
  体力たるや 自身とて無し
兵になれよう 筈もなく
  御国の為にも 成り得ない


ただ他人の目 逃れつつ
  川辺で時を 無為に費やす
この街々の 何処(いずく)にも
  身を寄せうる 家とても無し
山に祈り 川に縋(すが)って
  ただなる日々を 過ごすのみ







 ※( 戦争のこと ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

※ 戦争末期になりますと、文系の学生を対象とした学徒出陣が行われました。
 それ以前、小学過程終了後すぐに行く、航空機乗務員養成所が開設されました。
 私達は女子組でしたから、他の男の子の組から数名が受験しました。
 その中に、いのもと少年も入っていたのですね。
 
 学校に対しても、応募を薦めるように義務づけられたそうですから、みすみす生徒を
 送り出さなければならぬ、担任の先生がたとしても、実のところはお辛かったことと
 思います。

  いのもとさんは、どちらかと云えば腺病質で身体も細く、校医は担任の先生に
 「あの子は今のままでは肺疾患か何かで、長生き出来ないよ。」と心配されていたそうです。
 身体を鍛えよと常に教導されていたとのこと、その故もあったのだと思います。


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2007年07月14日

* 神風

日本にもし 敵が攻め込めば
神の守護にて 暴風来る
元寇(げんこう)の軍船 この由縁(ゆえ)に沈み
日の本の神 かくして救う


昔に来るは 木の軍船
たまたま遭いし 台風の季節
今暴風雨(あらし)にも沈まぬ 鉄の船
飛行機まで積む 大型船


昨日の夜も 神に誓った
小さき貧しき わが願い
そんな思いさえ 通じぬのに
神風なんぞ 吹く訳も無し




 ※( 問題児 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

※いのもと少年が特殊な問題児と、学校で扱われるに到ったきっかけは、
  「少し前まで欧米の偉人の伝記を読んでいたのに、何故に今日から
  鬼畜なのですか。」と教頭先生に質問したことにあったと云います。
  
  当時は鬼畜米英とのスローガンが掲げられました。
  その質問がとても子供らしからぬものであり、周辺にそれを云わせる
  背景があるのでは、との疑念を抱かれたそうです。
  
  「それから概(おおむね)ね口をつぐむことにしました。」とは彼の言です。
  聞くところによりますと、彼は小学校入学時には、もう高学年の用の
  教科書が読めたと云いますから、それなりに理解の度合いも深かった
  のだと思います。





 応援に感謝いたします♡
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2007年07月12日

*言葉

わん つう すりい ふぉう
  太平洋の 彼方の教え
いい ある さん すう
  大陸での教え方
共に今では 敵国の言葉


  西の国から 御佛(みほとけ)の教え
東の国から 耶蘇(やそ)の御教(みおし)え  
  日没む辺りから 文化の香り
日出ずる国により 文明を得た


  昔に読んだ 童話集
マザーグース アンデルセン
  張飛そして関羽 劉備 
英雄 豪傑 技師 数多(あまた)
  胸おどらせた 三国志


それらが今では 敵となって
  敵性語は 使うなという
漢字は 敵性語にならぬのか
  もし英米語に 限るとしても
言葉も知らぬで 和議は持てまい


  それとも 皆根絶やしにするつもり
そんなに 相手は弱いのだろうか





 ※( 問題児 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

※いのもと少年が特殊な問題児と、学校で扱われるに到ったきっかけは、
  「少し前まで欧米の偉人の伝記を読んでいたのに、何故に今日から
  鬼畜なのですか。」と教頭先生に質問したことにあったと云います。
  
  当時は鬼畜米英とのスローガンが掲げられました。
  その質問がとても子供らしからぬものであり、周辺にそれを云わせる
  背景があるのでは、との疑念を抱かれたそうです。
  
  「それから概(おおむね)ね口をつぐむことにしました。」とは彼の言です。
  聞くところによりますと、彼は小学校入学時には、もう高学年の用の
  教科書が読めたと云いますから、それなりに理解の度合いも深かった
  のだと思います。





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2007年07月11日

*変身

誰もが扮して 変身をする
舞台の上なら 見栄をきり
他所行(よそゆ)き着れば おちょぼ口


職人気質の おじさんも
軍服まとえば 上等兵
顔つきまでが 引き締まる


長剣吊るした お巡りさんも
制服だから いかめしく
胡乱(うろん)な相手を オイコラと呼ぶ


学生服でも 利口には見えぬ
錆びた金釦では 凛々(りり)しさもなし
これは よれよれのお下がりの(故)せい





    応援、有難うございます。♡
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2007年07月10日

*兵

兵の多数は 普通のひとびと
慣れぬ手つきで 銃を持つ
  兵は敵を ためらいなく撃つ
  撃鐡引かねば 自分が倒れる


自分が死ねば 家族が嘆く
倒れる敵にも 家族が居よう
  誰でも 悲しまぬ筈が無い
  撃って撃たれて 倒れて死ぬ


人と人とが 撃ち合う前に
国と国とで 話せぬものか
  我欲も捨て去り 私利も無く
   話して解れば 銃など不要


銃は飾りで あるだけで可(よ)し
軍艦(ふね)も戦闘機(ひこうき)も また飾り
  飾りをぴかぴか 磨き抜き
  ときどき乗って 楽しもう 




    応援有難うございます。m(__)m
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2007年07月08日

*越年

空俵(あきだわら) 爆(は)ぜて燃え
  翳(かざ)す 手と手に

火の粉 飛び散る
  明けくれば 元旦

皆 心昂(たか)ぶりて
  寝るも 適わず
夜半の 焚き火


戦時と雖(いえど)も 松飾
  子供は 晴れ着

新しき 足袋(たび)
  切なき 親の 志(こころざし)

家族揃うて 初詣(もうで)
  祈念は 国の戦勝か
私事(わたくしごと)の 幸せか 




 次回からは、最終章「 兵 」編をご紹介します。

   応援 有難うございます♡
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2007年07月07日

*燦めく こころ

金 銀 珊瑚 綾 錦
   昔の人の宝物
象牙 鼈甲(べっこう) 羽二重(はぶたえ) 紬(つむぎ)
   みんなが欲しがる 物だった
手に入らねばこそ 欲しがった


   金 銀 プラチナ ダイヤの光り
輝き燦めき 人をも圧す
   金 さえあれば
購(か)えない ものはない
   だからすべてが 金を追う


無垢な心の 美しさ
   優しく清く 暖かい
燦めく心の 尊さを
   誰もが 価値とは認めない
金では買えぬ ものなのに 



    応援、ありがとうございます♡
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2007年07月06日

*風

夕焼けの空に 鳥が啼く
電線に当たって 風は鳴る
つられて僕の 心も泣いた


星ぼしは闇に 鏤(ちりば)められ
凍てつく夜空に ひそと瞬(またた)く
心の空虚(うつろ)い 何時(いつ)明ける


日の出を映して 山爽やか
朝顔揺れて 風澄み渡り
僕の心も 今透(す)きとおる



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2007年07月05日

*心     *行く末

*心

心弱きは 騒ぎ
  心貧なるは 燥(はしゃ)ぐ
心軽きは 浮かれ
  心鈍なるは 感じず



心無きものは 巷に溢れ
  心あるものは 黙して語らず
人の事世の事 ただ眺むるのみ
  大人となりて 何をか為し得る





*行く末

雲は千切れて 風に舞い
河はうねりて 海へと目指す
わが行く末 いずくにあろう


心は空の 青みに預けて
身は現世(うつしよ)の 澱(よど)みに託す
わが行く途(みち)に 何こそがあろう


明日無き虫は 今日のみに生きて
魚は 水に潜(くぐ)りて何をか思う
輪が行く末に 待つものはなに




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2007年07月04日

*京づくし

*京づくし

鹿の子 友禅 染(そめ) 童(わらべ)
  京を頭(かしら)の 雅(みやび)かな


祇王寺(ぎおうじ) 東寺 三千院
  京なればこその 佇(たたずま)い


甲部 膳所裏(ぜぜうら) 紙七軒
  北野 島原 先斗(ぽんと)町


紅燈くぐる 頭巾(ずきん)客
  五山の僧の 花あそび


水炊き 鮒ずし かぶら蒸し
  利休麩 あまご うぐいす菜


鯛煮 京いも 管ごぼう
  はも梅 ひらめ薄造り


湯葉 八橋 すぐき漬け
  京あればこその 風味なり


懐石の格式高き 構えより
  舌に懐かし お晩菜(ばんざい)


金閣 苔寺 天満宮
  京にと群がる 田舎客


御所 二条城 本願寺
  京が京なる 所以(ゆえん)かな


眼差(まなざ)し 強(きつ)し 細おもて
  京なりせばの 京美人


貴船 木津川 雪ケ畑
 他所(よそ)者はじく 真の京


貴賤 上下(かみしも) ないまぜに
  ふところ深き 京の四季 






<旅>より
 ※(頭のなかでの旅行) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

 彼の詩の中に、京や法隆寺への旅がよまれています。
「小学校の頃、そんなに旅行が出来たの」と聞いたら、「行ってませんよ。図書館には、
名所や観光地の案内の本も沢山ありました。 それらの解説や写真を眺めていると、
行ったような気になる。 その想像と実際とのギャップも、そんなにないものです。
むしろ想像のほうが楽しくて、実地に行ってがっかりすることもありました。
そんな旅行なら、月や火星にも行きましたよ。」  これが返事。

頭の中での旅行、いつもひとりで居た彼は、そんな楽しみの術(すべ)も心得ていたのですね。


  次回は「京づくし」をごしょうかいします。


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2007年07月03日

* 旅

*旅

心寂しく 斑鳩(いかるが)の
法隆寺へと 尋ねたり
松蔭蒼(あお)き 金堂(こんどう)に
ロ甬(ず)す僧の経 籠りけり

柿食わぬ身にも 鐘の音
怨霊の呪詛(じゅそ)とも 響きけり
聖徳の甍(いらか) 聳(そび)え立ち
吾が奥心を 圧すなり

玉砂利白き 参道に
橿原の宮 詣でたり
国治めたる 神々の
昔に 思いを致すなり

古(いにしえ)の樹々 黒土に
新しき芽 見いだせり
雲重なりて 多武(とう)の峰
遙けき旅を 思うなり




 ※(頭のなかでの旅行) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

 彼の詩の中に、京や法隆寺への旅がよまれています。
「小学校の頃、そんなに旅行が出来たの」と聞いたら、「行ってませんよ。図書館には、
名所や観光地の案内の本も沢山ありました。 それらの解説や写真を眺めていると、
行ったような気になる。 その想像と実際とのギャップも、そんなにないものです。
むしろ想像のほうが楽しくて、実地に行ってがっかりすることもありました。
そんな旅行なら、月や火星にも行きましたよ。」  これが返事。

頭の中での旅行、いつもひとりで居た彼は、そんな楽しみの術(すべ)も心得ていたのですね。


  次回は「京づくし」をごしょうかいします。


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2007年07月02日

*かのひと

*かのひと

ふと気がつけば かのひとと
眼差(まなざ)し伏せての すれ違い
ふわりと 風も匂い立ち
暫しの安らぎ 胸にあり


云えず語れず かのひとと
心通わす 術もなく
ひとり面影 抱くのみ
その名も知らぬ 片思い




   次回は、「旅 」をご紹介します。

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2007年07月01日

*紙雛   *野   *主人公

*紙雛

紅白緑(べにしろあお)の 菱の餅
  三宝の上に 雛あられ
雪洞(ぼんぼり)の灯 暖かく
  白酒甘さ 春の宵
昔を今に なすよしもがな


男雛は 笏(しゃく)で 天を指し
  女雛は扇で 顔かくす
対(つい)に並んで 金屏風(びょうぶ)
  心に何を 思うやら
知る由もなし 紙の 雛




*野

野原にどんと 寝転びて
草の茵(しとね)に 身を埋む
澄み渡るたる 大空の
高みに心 委ぬれば
身もふわふわと 雲の中


宵に染まりし 吾が想い
陽に暖まり 風に乗る
そのまま大気に 溶け込めば
身体も 霞と 消え果てよう
現微睡(うつつまどろ)む 夢醒めて

われ引き戻す 草いきれ




*主人公

凛々しき姿 金釦の少年
染みひとつなき服 光る靴
きっと頭脳(あたま)も 良いのだろう


楚々たる姿 戦(そよ)ぐ風
揺れるスカート 眩しい脚(あし)
優しさ一杯の 女性(ひと)だろう


空想(あたま)の中に 物語りを作る
演ずるは 昼間見た人達 
夢のなかでは 僕も主役





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2007年06月29日

*日溜り  *澱み  *川岸にて

*日溜り

公園の日溜りに
座して 憩えば
鳩も身近に 羽をたたむ
梢に残る 木の葉は光り
苔むす石の 面(おもて)も揺れる


枯葉に埋もれて 目を閉じれば
陽に温まる 樹木(きぎ)の騒(ざわ)めき
空を駆け抜け
きれぎれに聞こゆ 人の声
風は巧まぬ 音の指揮者


陽が傾くまでの 暫しの安らぎ
空気を冷やして 薄暮(はくぼ)は迫り
鳥は枝えと 帰り立つ
腰を伸ばして 独り言
「明日はどんな日が くるのかな」




*澱み

堤のかげの 小さな澱み
   流れを外れて 渦を巻く
蚊取り線香ほどの 小さな渦
   取り残された 水の停滞
あめんぼうは 歓び踊り
   水澄ましも しばしの安らぎ


永らく渦で あってはならぬ
   小さな虫が 歓ぶとしても
木の葉がくるくる 回るとしても
   いずれ海へと 流される運命(さだめ)
陽のままでは 居られまい
   早く海へと 目指すが良し




*川岸にて

水澄ましは 転々(くるくる)ジルバのダンス
あめんぼうの足取りは 雅なワルツ
田亀の脚は フォックストロット
川面は 虫たちの 舞踏会


菫(すみれ)の花弁は 蜜蜂とタンゴ
月見草は 微風(そよかぜ)にブルースを舞う
野菊も揺れて ルンバのリズム
季節を歌う とりどりの(はな)華


空見上げれば 雲は謡蕩(たゆと)う
細かな水滴の 粒々が雲
風と戯れる ステップは何
ぼくの心も 宙天に踊る 





 次回は「 紙雛 」編をご紹介します。

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2007年06月28日

*車牽く男   *文字で描く絵

*車牽く男

荷物を牽いて あの男が通る
からだは陽に 焼き尽くされ
喉元辺(あた)りも 真っ赤な酒焼け
焼酎だけが 唯一の楽しみ


年令の頃なら はや四十路(よそじ)
少し知能も 劣るとの噂
でもあの顔だち あの体つき
心なしか 父親のそれに似て
永らく会えぬ 面影をさぐる


物心つく頃より 父親不在
海南島へ 出かけたと聞く
もとより音信 ある筈も無く
まさかに車を 牽いてもいまい
無事に暮らして いるのだろうか


男は酔って 車を牽き牽き帰る
喧嘩の挙句か 躓(つま)ずいたのか 
毛脛(けずね)の脚に 血が滲む
こんな男を 何故に気にする
所詮は 他人に過ぎないのに




*文字で描く絵

寡黙(かもく)に過ぎると 云われつつ
呑み込む言葉 綾(いろ)となし
心の内 に 絵を描く



線描 点描 なぐり描(が)き
画材は 胸のうちに置き
ひとには見せぬ 筆使い



募(つの)る思いを 色となし
画面に荒ぶ 陰と影
心の中の 修羅を描く





 次回から「 日溜り 」をご紹介します。

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2007年06月27日

*涙

*涙

小屋の裏手で 女の子が泣く
サーカス団の 小さな一員
独りで切なく しゃくりあげる
鼻に刷(は)いた 白粉ひと筋
涙に流れて 頬に伝う


錦糸の縫いとり 青の服
照明(あかり)の下では 華やかでも
陽にてらされれば それなりのもの
でも君はまだ 良いと思うよ
いろんな街を 渡り歩ける


客の前では お姫さま
見る人々を 楽しくさせる
この一団には 親兄弟も居て
幸せだって あるだろう
熊や犬猿 鳥たちとも仲良し


叱られたのか 寂しいのか
涙が出るのは まだましなのだ
一緒に暮らす 仲間も無しに
泣いてはいられぬ 立場もある
涙も枯れた 子供も居るのだ 




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2007年06月26日

*夜空  *習性   *望郷

*夜空

やり切れ無さに 家を抜け出て
   寒夜の道を 何処ともなく歩く

歩き回って どうなるでもなし
   ふと気がつけば 川沿いの道

川面の闇に 密かな気配(けはい)
   いつしか小雪の 舞い散るを知る

藍の空から 湧き出て降った
   見上げる頬に 溶ける淡雪

この雪を 逆に辿(たど)れば 
   夜空に居場所が 見つかるかも



*習性

昆虫の一生は 習性によって終わる
 永い間に 培(つちか)われしもの
定められた とおりの行動(うごき)
 ファーブルは 昆虫記にそう説く
それに比すれば 人間は自由
 
 でも本当に そうかなあ
身近の人達 見ていると
 功を望み 金も欲しがる
人間の習性の 根源は我欲
 行動の様相(さま)は 多岐多様(おおき)に渡る 

今人間嫌いに ならないのは
 稀に清潔(きれい)な人を 見出すから



*望郷

かぼそ気に 星はまたたき
吹く風に 吐く息白し
踏む土も 草も凍りて
遠く家並みの 灯火仄(ともしびほの)か

帰るあてなき 足先重く
家路を辿る 人影も無し
昇る朝陽(あさひ)を 神に希(ねが)いて
見知らぬ駅舎の 夜に泊まる

仄(ほの)暗き 裸電球
迷える犬の 遠吠えひとつ
列車の響き 絶えて久しく
捨てられし身の 想いに浸る 




 いのもと少年は、この頃にお母様は天草のご実家で療養され亡くなられます。
 親戚に預けられていた頃の作品です。
 戦争末期、食糧難の時代、預かるほうも預けられるほうも大変困難だった事でしょう。

 
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