2007年07月30日
【付記 ② 先生がたの事 】
※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより
当時わが校から、唯ひとり航空機乗務員養成所に入所した志賀亟さんは、半年も経たずしての
終戦で、帰郷。そのまま復学もせずに消息が絶えました。
ある日、皆の前に表れた時には、「雨やどり」と名付けたお酒の店の亭主。
その後すぐ病を得て亡くなりました。 決して居酒屋だからどうのと云うのではありません。
それはそれで達観の人生であったのでしょう。
ただ級友としての目から見れば、彼はクラスの級長も勤め、いづれは必ず一廉(ひとかど)の
人物に成り得ると皆に嘱望された人材でした。
戦争が彼の人生を変えた、とそうは云えないでしょうか。
先生にも生徒にもそれぞれの人に、戦争は後々まで深い傷あとを残していたのです。
また、萩尾先生は、いのもとさんが出席し、話が弾んだ学年会から暫くして、お住まい近くの
上通りの街角で、工事中に屋上から落下してきた看板を身に受け、お亡くなりになりました。
なんとも儚いお命でした。
謹んで鬼籍へ入られた方々の、ご冥福をお祈り致します。

応援、有難うございました♡
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当時わが校から、唯ひとり航空機乗務員養成所に入所した志賀亟さんは、半年も経たずしての
終戦で、帰郷。そのまま復学もせずに消息が絶えました。
ある日、皆の前に表れた時には、「雨やどり」と名付けたお酒の店の亭主。
その後すぐ病を得て亡くなりました。 決して居酒屋だからどうのと云うのではありません。
それはそれで達観の人生であったのでしょう。
ただ級友としての目から見れば、彼はクラスの級長も勤め、いづれは必ず一廉(ひとかど)の
人物に成り得ると皆に嘱望された人材でした。
戦争が彼の人生を変えた、とそうは云えないでしょうか。
先生にも生徒にもそれぞれの人に、戦争は後々まで深い傷あとを残していたのです。
また、萩尾先生は、いのもとさんが出席し、話が弾んだ学年会から暫くして、お住まい近くの
上通りの街角で、工事中に屋上から落下してきた看板を身に受け、お亡くなりになりました。
なんとも儚いお命でした。
謹んで鬼籍へ入られた方々の、ご冥福をお祈り致します。
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2007年07月28日
【付記 ① 先生がたの事 】
※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより
永らく郷里を離れていた彼が、私共の学年会に始めて出席してくれた時、私の担任であった
萩尾絹子先生も同席されていました。
彼と私とでは組が違いましたから、担任の先生も違っていたのです。
萩尾先生はいのもと少年の事を良く覚えていられて、職員室での先生がた同士のお話のなかで、
彼の担任の西田先生が「あのまま放って置くと、過激なコミニュストにもなりかねない。」と
心配され気にもされていた、と聞きました。
彼の不遇の身の上も察して居られて、当直の夜など、宿直室に泊め食事もいっしょにされて、
夜更けまで特に話をされていたそうです。
「あ、あれはとても嬉しかったですよ、親身にいろいろ心配していただきました。
先生であっても肉親のように思えましたね。」と彼も懐かしそうに萩尾先生に答えていました。
その西田一隆先生は、戦後の教育改革運動の先頭に立たれ、その激務の中で残念ながら、
まだお若かったのに亡くなられました。
その折にまた萩尾先生は、「私は戦時中、深く考える事も無しに、生徒達にむかって、
戦争を賛美するかのような言辞を弄した。戦後はその事を恥じて、教職から間もなく
身を引いた。」と語られました。当時20才を少し超えたばかりの年令。若さに溢れ、その名と同じく花の香がするような先生。
多くの女子生徒に慕われていた魅力的な方であったのに、とうとう結婚もなさいませんでした。
ここにも、己れに厳しく身を処された方が居られたのです。
応援有難うございました。m(__)m
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永らく郷里を離れていた彼が、私共の学年会に始めて出席してくれた時、私の担任であった
萩尾絹子先生も同席されていました。
彼と私とでは組が違いましたから、担任の先生も違っていたのです。
萩尾先生はいのもと少年の事を良く覚えていられて、職員室での先生がた同士のお話のなかで、
彼の担任の西田先生が「あのまま放って置くと、過激なコミニュストにもなりかねない。」と
心配され気にもされていた、と聞きました。
彼の不遇の身の上も察して居られて、当直の夜など、宿直室に泊め食事もいっしょにされて、
夜更けまで特に話をされていたそうです。
「あ、あれはとても嬉しかったですよ、親身にいろいろ心配していただきました。
先生であっても肉親のように思えましたね。」と彼も懐かしそうに萩尾先生に答えていました。
その西田一隆先生は、戦後の教育改革運動の先頭に立たれ、その激務の中で残念ながら、
まだお若かったのに亡くなられました。
その折にまた萩尾先生は、「私は戦時中、深く考える事も無しに、生徒達にむかって、
戦争を賛美するかのような言辞を弄した。戦後はその事を恥じて、教職から間もなく
身を引いた。」と語られました。当時20才を少し超えたばかりの年令。若さに溢れ、その名と同じく花の香がするような先生。
多くの女子生徒に慕われていた魅力的な方であったのに、とうとう結婚もなさいませんでした。
ここにも、己れに厳しく身を処された方が居られたのです。
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2007年07月27日
【 国民皆兵 】 【 一銭五厘の命 】
※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより
【 国民皆兵 】
戦時中は男子が満20才に達すると、壮丁(そうてい)と呼ばれ徴兵に応じる義務が生じ、検査を受けました。
合格すれば入隊し、一定年限を軍務に服さねばなりませんでした。
身体頑健な壮丁は甲種合格、これは名誉なこととされ、まあまあが乙種、軍務に耐えぬとされた
病弱な者が丙種不合格、軽蔑の対象となりました。
陸軍では入隊すれば初年兵が2等兵、成績が良くて進級すれば1等兵。
軍務期間を延長した古参兵となれば上等兵。この上の伍長、軍曹、曹長ともなれば下仕官とされ、
通常庶民の徴兵による入隊の階級はここまででした。
【 一銭五厘の命 】
国民皆兵の方針のもとで、戦闘員の消耗が激しくなるにつれ、随時の徴兵の数が増えてゆき、
末期にはかなりの年配の者まで召集を受けました。
徴兵の告知は召集令状によってなされ、その用紙の色が赤でしたので、一般に「赤紙」と呼ばれていました。
その郵便料が当時一銭五厘であったことから、一銭五厘の命などと、自ら揶揄する人も居たのです。
召集を受けると、数日後には駅から最寄りの駐屯地へ赴き、そのまま戦地へと送られて行きました。
建前は上はお国の為に目出たき事と、万歳の声に送られて行ったものですが、行く者もそれを
見送る家族も、密かに涙したのも当然のことです。
応援有難うございました。
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【 国民皆兵 】
戦時中は男子が満20才に達すると、壮丁(そうてい)と呼ばれ徴兵に応じる義務が生じ、検査を受けました。
合格すれば入隊し、一定年限を軍務に服さねばなりませんでした。
身体頑健な壮丁は甲種合格、これは名誉なこととされ、まあまあが乙種、軍務に耐えぬとされた
病弱な者が丙種不合格、軽蔑の対象となりました。
陸軍では入隊すれば初年兵が2等兵、成績が良くて進級すれば1等兵。
軍務期間を延長した古参兵となれば上等兵。この上の伍長、軍曹、曹長ともなれば下仕官とされ、
通常庶民の徴兵による入隊の階級はここまででした。
【 一銭五厘の命 】
国民皆兵の方針のもとで、戦闘員の消耗が激しくなるにつれ、随時の徴兵の数が増えてゆき、
末期にはかなりの年配の者まで召集を受けました。
徴兵の告知は召集令状によってなされ、その用紙の色が赤でしたので、一般に「赤紙」と呼ばれていました。
その郵便料が当時一銭五厘であったことから、一銭五厘の命などと、自ら揶揄する人も居たのです。
召集を受けると、数日後には駅から最寄りの駐屯地へ赴き、そのまま戦地へと送られて行きました。
建前は上はお国の為に目出たき事と、万歳の声に送られて行ったものですが、行く者もそれを
見送る家族も、密かに涙したのも当然のことです。
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2007年07月25日
【 配給の頃 】 【 ぼした祭り 】
※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより
*【 配給の頃 】
昭和16年12月に第2次世界大戦が始まり、敗色が濃くなるにつれて物資も不足し、石油など民生用には与えられず、自動車も木炭を焚いて走りました。
やがて食料、衣服に到るまで統制の対象とされ、配給と称して定量が与えられましたが、
それだけではもとより十分とは云えず、皆とても困りました。
ただ、そうした状況でも、世の中には常に裏道があるもので、その末端の配給所で給付される量は
少なくとも、流通の過程で闇に流れるものも少なかったでしょう。
いのもとさんの身の囲りが配給所で、そうした抜け道を横目に見ながら、正義感の強い性格からして
許せぬと心を痛めていたのでしょう。
*【 ぼした祭り 】*ボシタ祭り(5/28)
お祭りにふれましょう。 市の中央に藤崎宮の社(やしろ)があります。
毎年9月15日に遷宮の祭儀があり、それを随兵(ずいびょう)と呼んでいきました。
この掛け声の意味が、秀吉の朝鮮戦没で敵を滅ぼした、との意味があるのではとの
疑惑も起り、今では控えられるようになっています。
本来は卑属な意味もあるらしいのですが、とにかく戦前からの楽しいお祭りです。
藤崎宮・秋の大祭(馬追い動画)
応援有難うございました。♥
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*【 配給の頃 】
昭和16年12月に第2次世界大戦が始まり、敗色が濃くなるにつれて物資も不足し、石油など民生用には与えられず、自動車も木炭を焚いて走りました。
やがて食料、衣服に到るまで統制の対象とされ、配給と称して定量が与えられましたが、
それだけではもとより十分とは云えず、皆とても困りました。
ただ、そうした状況でも、世の中には常に裏道があるもので、その末端の配給所で給付される量は
少なくとも、流通の過程で闇に流れるものも少なかったでしょう。
いのもとさんの身の囲りが配給所で、そうした抜け道を横目に見ながら、正義感の強い性格からして
許せぬと心を痛めていたのでしょう。
*【 ぼした祭り 】*ボシタ祭り(5/28)
お祭りにふれましょう。 市の中央に藤崎宮の社(やしろ)があります。
毎年9月15日に遷宮の祭儀があり、それを随兵(ずいびょう)と呼んでいきました。
この掛け声の意味が、秀吉の朝鮮戦没で敵を滅ぼした、との意味があるのではとの
疑惑も起り、今では控えられるようになっています。
本来は卑属な意味もあるらしいのですが、とにかく戦前からの楽しいお祭りです。
藤崎宮・秋の大祭(馬追い動画)
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2007年07月24日
【天草・島原 】
※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより
熊本駅から列車に乗って、未だに単線の線路を西に走れば有明海に突き出た、
半島の突端が終着駅の三角港。
昔もここから天草、島原へと渡航船が出ていました。
島原の乱、天草四郎時貞で名高い天草の島々へは、今ではもう島伝いに車でも、
往来出来るようになっています。
いのもとさんの母上様は、るるどのある天草本渡のご出身。
この地に戻って療養中に亡くなられたそうです。
「るるど」とは、カソリックの聖地、南仏「ルルド」から名を引いた、洞窟などを利用した
隠れ切支丹信仰の場所です。
熊本は肥後火の国とも呼ばれます。
その謂れの一つでもある阿蘇火山が、市中からも遥か東方に見えています。
とはいっても市内から望めるのは、外輪の峰々に過ぎませんが、それでも昔天気の
良い日は私達の小学校の校庭からも噴煙たなびくのが、見えたものでした。
▼↓参考ホームページ
三角港
八景水谷公園
八景水谷公園
ASO fan club
水前寺成趣園
熊本駅から列車に乗って、未だに単線の線路を西に走れば有明海に突き出た、
半島の突端が終着駅の三角港。
昔もここから天草、島原へと渡航船が出ていました。
島原の乱、天草四郎時貞で名高い天草の島々へは、今ではもう島伝いに車でも、
往来出来るようになっています。
いのもとさんの母上様は、るるどのある天草本渡のご出身。
この地に戻って療養中に亡くなられたそうです。
「るるど」とは、カソリックの聖地、南仏「ルルド」から名を引いた、洞窟などを利用した
隠れ切支丹信仰の場所です。
熊本は肥後火の国とも呼ばれます。
その謂れの一つでもある阿蘇火山が、市中からも遥か東方に見えています。
とはいっても市内から望めるのは、外輪の峰々に過ぎませんが、それでも昔天気の
良い日は私達の小学校の校庭からも噴煙たなびくのが、見えたものでした。
▼↓参考ホームページ
三角港
八景水谷公園
八景水谷公園
ASO fan club
水前寺成趣園
2007年07月23日
【付記 ② 市中のあれこれ 】
※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより
城から離れた北東の位置に、水前寺公園があります。
肥後熊本の藩主として、細川忠利公が豊前(ぶぜん)小倉から熊本城に入られた後、
花畑(現花畑町)に国許屋敷を、出水(いずみ=水前寺公園近く)に、別墅(べっしょ)屋敷を設けられました。
その、別墅屋敷が今の水前寺公園に当たります。
またこの地に豊後から羅漢寺を移して水前寺と呼ばれた事からこの名になりました。
後にこの寺は廃されましたが、名のみが今にまで残されているのです。
また、細川綱利公の時代に「国府のお茶家」と呼ばれていた邸内の茶屋に、富士を模した
築山や湧水を利用した泉水などの庭園が造られ、陶淵明の詩の一節から「成趣園」と
名付けられました。
明治十一年には、園内に出水(いずみ)神社が建立され、この庭園も社地として政府より
払い下げられ、市民に開放される事になりました。
今はさほどでもなくなりましたが、熊本は地下水が豊富に湧き、近くには湧水から成り立った
江津湖(えずこ)があります。
この湖の水温は年中16℃~18℃を保ち、夏鳥・冬鳥が一緒に棲息していられて、
野鳥の宝庫としても知られています。
昔は市内の水道水も湧水によって賄われていた程です。
郊外の「八景水谷」と云うところに、市の取水池がありました。
つづく
応援ありがとうございました♥(^。^)♥
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城から離れた北東の位置に、水前寺公園があります。
肥後熊本の藩主として、細川忠利公が豊前(ぶぜん)小倉から熊本城に入られた後、
花畑(現花畑町)に国許屋敷を、出水(いずみ=水前寺公園近く)に、別墅(べっしょ)屋敷を設けられました。
その、別墅屋敷が今の水前寺公園に当たります。
またこの地に豊後から羅漢寺を移して水前寺と呼ばれた事からこの名になりました。
後にこの寺は廃されましたが、名のみが今にまで残されているのです。
また、細川綱利公の時代に「国府のお茶家」と呼ばれていた邸内の茶屋に、富士を模した
築山や湧水を利用した泉水などの庭園が造られ、陶淵明の詩の一節から「成趣園」と
名付けられました。
明治十一年には、園内に出水(いずみ)神社が建立され、この庭園も社地として政府より
払い下げられ、市民に開放される事になりました。
今はさほどでもなくなりましたが、熊本は地下水が豊富に湧き、近くには湧水から成り立った
江津湖(えずこ)があります。
この湖の水温は年中16℃~18℃を保ち、夏鳥・冬鳥が一緒に棲息していられて、
野鳥の宝庫としても知られています。
昔は市内の水道水も湧水によって賄われていた程です。
郊外の「八景水谷」と云うところに、市の取水池がありました。
つづく
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2007年07月22日
【付記 ① 市中のあれこれ 】
※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより
当時の熊本の繁華街として、衣服や装飾品などを扱う商店を多く連ねた、通りの名が下通り。
書店やレコード店など、どちらかと云えば趣味性の強い商品を、主として扱う店が揃っていたのが
上通りでした。
上、下の通り全体が、今でいうショッピング・モールのような感じでした。
それに比して、映画演劇、飲食店などが多く集っていたのが新市街。
世の移り変わりをそのまま映すような名、電気館、世界観、ニュース館などがありました。
市の南西に熊本駅があり、その背後の小高い山が花崗山」。
戦後すぐ頂上に仏舎利塔設けられました。
ここは熊本城御幸(みゆき)坂に並ぶ櫻の名所でした。
その花崗山に連なる高い山が金峯山。
今では頂上にアンテナが林立し、自動車道もできて、山容もすっかり変わりました。
ここへと辿る山路の途中に夏目漱石の「草枕」の書き出しで有名な、峠の茶屋が今も
残されています。
熊本市街は、市中に大樹の数が多く、今では市街地の開発によって、最程(さほど)でも
なくなりましたが、私達の子供の頃には、家並みも樹々に埋れていて、仙台と同じく
杜の都称されていました。
市の中央に加藤清正公築城の熊本城があり、城壁の石積みの見事さで知られています。
外観の印象はまさに質実剛健。 姫路の白鷺城とは好対照です。
この城(別名・銀杏城)は、西南の役(えき)の際に消失した、との風説もありますが、
実情は薩軍の攻撃前に、すでに本丸は消失していました。
失火か故意か?真相は今究明されようとしています。
応戦した谷干城率いる熊本城の勇猛ぶりは史実に残るとおりです。
この戦役にも無事で、昔ながらの姿を保つ宇都櫓は、城郭の一周に今も残されています。
天守閣は戦後しばらくして再建されました。
つづく
応援有難うございました。♡
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当時の熊本の繁華街として、衣服や装飾品などを扱う商店を多く連ねた、通りの名が下通り。
書店やレコード店など、どちらかと云えば趣味性の強い商品を、主として扱う店が揃っていたのが
上通りでした。
上、下の通り全体が、今でいうショッピング・モールのような感じでした。
それに比して、映画演劇、飲食店などが多く集っていたのが新市街。
世の移り変わりをそのまま映すような名、電気館、世界観、ニュース館などがありました。
市の南西に熊本駅があり、その背後の小高い山が花崗山」。
戦後すぐ頂上に仏舎利塔設けられました。
ここは熊本城御幸(みゆき)坂に並ぶ櫻の名所でした。
その花崗山に連なる高い山が金峯山。
今では頂上にアンテナが林立し、自動車道もできて、山容もすっかり変わりました。
ここへと辿る山路の途中に夏目漱石の「草枕」の書き出しで有名な、峠の茶屋が今も
残されています。
熊本市街は、市中に大樹の数が多く、今では市街地の開発によって、最程(さほど)でも
なくなりましたが、私達の子供の頃には、家並みも樹々に埋れていて、仙台と同じく
杜の都称されていました。
市の中央に加藤清正公築城の熊本城があり、城壁の石積みの見事さで知られています。
外観の印象はまさに質実剛健。 姫路の白鷺城とは好対照です。
この城(別名・銀杏城)は、西南の役(えき)の際に消失した、との風説もありますが、
実情は薩軍の攻撃前に、すでに本丸は消失していました。
失火か故意か?真相は今究明されようとしています。
応戦した谷干城率いる熊本城の勇猛ぶりは史実に残るとおりです。
この戦役にも無事で、昔ながらの姿を保つ宇都櫓は、城郭の一周に今も残されています。
天守閣は戦後しばらくして再建されました。
つづく
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2007年07月21日
【付記 熊本の食べ物 】
※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより
京菜、広島菜、野沢菜などと同じく、熊本には高菜漬けがあります。
刻んだ高菜の古漬けを炒めたものは、お茶漬けなど手軽な惣菜ともなります。
今では馬刺しやラーメンも有名ですが、辛子味噌を穴に詰め、衣をつけて揚げた辛子蓮根は、
サッパリとした風味で、昔から知られています。
ふだん草そうとは、味噌汁の実にして美味しい青菜の事。
すいとんの事を熊本では、団子汁(だごじる)と云います。詩ではだんご汁となっていますが、
これは言葉のリズムによるものでしょう。
ひともじと云う細ねぎを茹でてぐるぐると巻き、酢味噌でいただくのが、ひともじぐるぐる。
しいのふたとは、掌の上に乗るような小さな魚。
煮魚にすると白身で見離れの良い美味しいものです。
文旦(ぼんたん)とはザボンの事。 文旦漬けと云えば、その厚い皮を煮て砂糖で漬けたもの。
その風味を生かしたキャラメル状の飴は、文旦飴として、今でも諸方のキヨスクなどで売られて
います。
かるかんは、淡雪のような、口あたりのソフトな菓子。
銅銭糖とは阿蘇地方え売られていた菓子。文銭を連ねた青差しの形をした落雁です。
また、いひゅうもっこすとは、熊本の方言で根性張りのこと。
土佐での「いごっそう」の意と同じく、やせ我慢の意地っ張りを指します。
いのもと少年は、多分にこの傾向にあったのでしょう。
つづく
応援、有難うございました。♥
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京菜、広島菜、野沢菜などと同じく、熊本には高菜漬けがあります。
刻んだ高菜の古漬けを炒めたものは、お茶漬けなど手軽な惣菜ともなります。
今では馬刺しやラーメンも有名ですが、辛子味噌を穴に詰め、衣をつけて揚げた辛子蓮根は、
サッパリとした風味で、昔から知られています。
ふだん草そうとは、味噌汁の実にして美味しい青菜の事。
すいとんの事を熊本では、団子汁(だごじる)と云います。詩ではだんご汁となっていますが、
これは言葉のリズムによるものでしょう。
ひともじと云う細ねぎを茹でてぐるぐると巻き、酢味噌でいただくのが、ひともじぐるぐる。
しいのふたとは、掌の上に乗るような小さな魚。
煮魚にすると白身で見離れの良い美味しいものです。
文旦(ぼんたん)とはザボンの事。 文旦漬けと云えば、その厚い皮を煮て砂糖で漬けたもの。
その風味を生かしたキャラメル状の飴は、文旦飴として、今でも諸方のキヨスクなどで売られて
います。
かるかんは、淡雪のような、口あたりのソフトな菓子。
銅銭糖とは阿蘇地方え売られていた菓子。文銭を連ねた青差しの形をした落雁です。
また、いひゅうもっこすとは、熊本の方言で根性張りのこと。
土佐での「いごっそう」の意と同じく、やせ我慢の意地っ張りを指します。
いのもと少年は、多分にこの傾向にあったのでしょう。
つづく
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2007年07月20日
【 付記 詩(うた)にまつわる事柄 】
※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより
昔のものですから、もう現代の若い方には、それと通じない語句もあると思います。
また地方都市のことで、馴染(なじ)みのない地名も多いのは当然のことです。
思いつくままに、それらに触れてみたいと思います。
(九州 ・ 熊本)
私共が育った所は九州の熊本です。本荘と云う町は、熊本市の中央を流れる
白川(歌の中では時に白河と書かれています。)の南側に位置しています。
地域をいわゆる山の手、下町とに置き換えていえば、まさに下町ふう。
どちらかと云えば少し貧しかった庶民の町でした。
東京に当てはめるとすれば、白川を隅田川に模して向島辺り、寺島、白髭と
いったところでしょうか。
その白川に懸かる代継橋を渡れば、本荘町。代継橋の下流に長六橋
上流に病院橋、安巳(あんせい)橋、大甲橋とならんでいました。
いのもと少年が居た家は、その代継橋のすぐ傍らでした。
当時、代継橋の対岸には遊所がありました。
もちろんその界隈に女の子など、立ち入ることもなかったのですが、
戦中戦後の混乱期に、虐げられた女性達の姿があったこと、何となく知ってはいました。
彼は、子供の身でありながら、それらの哀しみまで深く理解していたのですね。
つづく
応援、ありがとうございました。♡
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昔のものですから、もう現代の若い方には、それと通じない語句もあると思います。
また地方都市のことで、馴染(なじ)みのない地名も多いのは当然のことです。
思いつくままに、それらに触れてみたいと思います。
(九州 ・ 熊本)
私共が育った所は九州の熊本です。本荘と云う町は、熊本市の中央を流れる
白川(歌の中では時に白河と書かれています。)の南側に位置しています。
地域をいわゆる山の手、下町とに置き換えていえば、まさに下町ふう。
どちらかと云えば少し貧しかった庶民の町でした。
東京に当てはめるとすれば、白川を隅田川に模して向島辺り、寺島、白髭と
いったところでしょうか。
その白川に懸かる代継橋を渡れば、本荘町。代継橋の下流に長六橋
上流に病院橋、安巳(あんせい)橋、大甲橋とならんでいました。
いのもと少年が居た家は、その代継橋のすぐ傍らでした。
当時、代継橋の対岸には遊所がありました。
もちろんその界隈に女の子など、立ち入ることもなかったのですが、
戦中戦後の混乱期に、虐げられた女性達の姿があったこと、何となく知ってはいました。
彼は、子供の身でありながら、それらの哀しみまで深く理解していたのですね。
つづく
応援、ありがとうございました。♡
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