2007年07月28日

【付記 ① 先生がたの事 】

 ※( 付記 ) 編集者:興津千恵子さん(小学校の同級生)後書きより

 永らく郷里を離れていた彼が、私共の学年会に始めて出席してくれた時、私の担任であった
萩尾絹子先生も同席されていました。
彼と私とでは組が違いましたから、担任の先生も違っていたのです。
萩尾先生はいのもと少年の事を良く覚えていられて、職員室での先生がた同士のお話のなかで、
彼の担任の西田先生が「あのまま放って置くと、過激なコミニュストにもなりかねない。」と
心配され気にもされていた、と聞きました。

彼の不遇の身の上も察して居られて、当直の夜など、宿直室に泊め食事もいっしょにされて、
夜更けまで特に話をされていたそうです。
「あ、あれはとても嬉しかったですよ、親身にいろいろ心配していただきました。
先生であっても肉親のように思えましたね。」と彼も懐かしそうに萩尾先生に答えていました。
その西田一隆先生は、戦後の教育改革運動の先頭に立たれ、その激務の中で残念ながら、
まだお若かったのに亡くなられました。

 その折にまた萩尾先生は、「私は戦時中、深く考える事も無しに、生徒達にむかって、
戦争を賛美するかのような言辞を弄した。戦後はその事を恥じて、教職から間もなく
身を引いた。」
と語られました。当時20才を少し超えたばかりの年令。若さに溢れ、その名と同じく花の香がするような先生。
多くの女子生徒に慕われていた魅力的な方であったのに、とうとう結婚もなさいませんでした。
ここにも、己れに厳しく身を処された方が居られたのです。



 
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